月夜や闇夜を台無しにするライトアップとか。浮かれ気味の京都は、あまり好きになれない気がします。けれど、それでも尚、京都は私たちを惹き付けて已みません。何度でも行きたくなる。美と傳來の藝術の何たるかを討ね究めやうとすれば是非とも京都の風景と生活とに接觸して見なければならない、と記したのは永井荷風。日本人としては、自国の美とか伝統の芸術のことを気にしないわけにはいかないですから、京都が気になるのは仕方のないこと。誰もが、その地に、この国の美や伝統がみずみずしく息づいているに違いないと思うからです。いったいそれは、どうしたことなのか・・・。
人間国宝。国の宝、と呼ばれる人に、この国のことを聞いてみたくなりました。日本の美とか芸術とは何なのか。ここはどうしても、京都の人間国宝を訪ねてみなければならないと思ったわけです。
第三回は、舞の人、井上八千代先生です。
◆京に根ざす美
「日本の気候や風土に合った暮らしがあって、万物に命が宿り、滅びては生まれ、そのうねりが脈々と続いていく。そんな流れを一つの街の中で体現しているのが京都であるとも言えます。そういう土地があって京舞という芸能がある」井上八千代先生は自著『京舞つれづれ』の中でそう語っています。
その京舞井上流のお稽古場は京都の東山、祇園からほんの少し離れた新門前にあります。八千代先生は、もちろん祇園の舞のお師匠さんですから、そのお稽古場も祇園の直中に、と思ってしまうのですが、そうではありません。祇園というのは新橋までといいますから、お稽古場はその一本北側の通り。「祇園にほど近いところに住まいし、舞をお教えする」それが先生のこだわりなのです。近すぎることもなく、かといって遠くもない。そのほどよい距離感。「踏み込めないところは互いに踏み込まないことやと思います」。それは、この小さな国に暮らす人びとが身につけた、他者を思いやる作法のひとつなのかも知れません。
日本人の距離感、対する人との間合いの取り方は、本当に絶妙です。人間関係はもちろん、絵画も詩歌も音楽も、日本の文化はまさに間の文化であります。長谷川等伯の松林図も、松尾芭蕉の古池の句も、地唄も浄瑠璃も、間の良さこそが肝心要。西洋の埋め尽くし語り尽くす文化との大きな差異でありましょう。日本の生け花は草花で間を創っていきますが、西洋のフラワーアレンジメントは花で空間を埋めようとします。絵画における間、つまり余白は、西洋では未完の印しになってしまいます。人間関係もかくのごとし。アメリカの友人などは、出会った途端にハグ、ということになって、日本人としては誠に気まずいことになります。長谷川櫂は、その著書『和の思想』に『この間は日本人の生活や文化の中でどのような働きをしているのだろうか。そのもっとも重要な働きは異質なもの同士の対立をやわらげ、調和させ、共存させること、つまり、和を実現させることである』と記します。柔らかに、しなやかに、そして強かに共生をはかる日本人の知恵がそこにある。ことに京都にはそうした知恵が今も息づいているのです。
八千代先生は言います。「お互いを思いやりながら生活するっていうんでしょうかね。人と人もそうですし、モノを使うときも、コトを起こすときも、そうやったんですよね。日本人ってね。特に京都はそれで成り立ってた」祇園のお師匠さんが、祇園ではなく、ほどよい距離の新門前から、弟子である芸妓さん舞妓さんを眺めて暮らしている。先生のそのこだわりは、日本の麗しき間の文化を見事に体現することでもあるのです。
[連載一覧]田中康嗣(和塾 理事長)・日本の宝 日本を語る
・01 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(1)
・02 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(2)
・03 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(3)
・04 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(4)
・05 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(1)
・06 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(2)
・07 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(3)
・08 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(4)
・09 京舞人間国宝・井上八千代(1)
・10 京舞人間国宝・井上八千代(2)
・11 京舞人間国宝・井上八千代(3)
・12 京舞人間国宝・井上八千代(4)